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2010/12/10稽古日誌「手鏡を捨てて手鏡へ」

うちの道場ではあまり型稽古はやりません。
理由はいくつかありますが、居付かない身体をつくる為には極力、鋳型にはまりがちな型稽古は避けるようにしています。

とはいえ、型の動きだからこそ見えてくるもの、感じるものもあります。
というわけで、今回は最近の稽古のテーマになっている「先」を型の中でとらえてみるということをやってみた。

とくに時間をかけたのは手鏡。

この手鏡というのは非常に面倒くさい技なんです(笑)。
両手首を掴まれてから、少なくとも3つの動作をしないと相手を転がせない。
引くだけで相手を転がせる引き投げと比較すると手鏡というのは動きの無駄が多い。

ところが、この手鏡の型には非常に重要なエッセンスが詰まっている。手鏡

その一つが「先」なのです。
イラストでは最後の切り下しの部分の「先」しか説明してないけど、実際に他の動作にも「先」は入ってくる。

実際に手鏡の中でどのように「先」をとらえるか説明し、その後みんなで稽古。

八光流をされている方はご存知だが、この手鏡という型は初段、二段、三段、四段と全てに存在しそれぞれが違う術理で成り立っている。
簡単に分類すると初段は純粋に関節を極める手鏡、二段は「先」をとらえる手鏡、三段は相手の中心軸をとらえる手鏡、四段は経絡を攻める手鏡。

八光流は「手放す」ことが大事という話は何度もしているが、この手鏡ひとつをとっても初段から二段、二段から三段と手鏡の術理が全く違うものに変化するので初段の手鏡のやり方に固執したまま二段の手鏡は出来ないし、二段の手鏡に固執すると三段の手鏡は出来ない。

重要なポイントは「手鏡は関節技ではない」という意識のシフトチェンジ

いずれにせよ、習ったものを逐一「手放す」ことで次の術理が見えてくる。
これが八光流の面白いところなんです。

ちなみに手鏡というのは自分の目の前に差し出した手のひらを鏡になぞらえたところから来ている。

なぜ鏡なのかというと...

技をやるときに目の前にいるのは他者ではなく自分自身を写した鏡のような存在でであるというふか~い含蓄が実は含まれている・・・・・のかもしれない(笑)

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