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柔術稽古日誌「『わからない』を『わかる』」

先日うちの八光流柔術に入門したばかり78歳の方が稽古の後にこう言いました

「今まで人生でやってきたやり方と全く違いますね」

その言葉は戸惑いを含みながらもじっくりと噛み締めるような言葉でした。


柔術の稽古は今までの自分でやってきた身体の使い方を全部ひっくり返すようなもの。
しかし長年やってきた方法を変えていくというのは実際にやってみるとなかなか一筋縄ではいかない。

なぜなら学びというのは新しい事を身につけるというところではなく、古いやり方を手放すというところに本質があるから。

歩くことも出来る、立つことも座ることも出来る。
自分では出来ていると思っていたことを全てもう一度改めてやり直すということ。

それが何年何十年と長ければ長いほど変えていくには時間がかかるし、学びはじめは今までのやり方よりもかえってやりづらいという感覚さえ出てくる。
そうすると「別に今までの方法でも困ってないし、何で今さら・・・」という思いも出てくる。
そのぐらい今までの慣れたやり方の自分を手放すのは難しい。

でもこの方は、78年間、やり続けた自分のやり方を手放すということに取り組み始めた。
これってすごいことだと思うし、その姿勢は頭が下がる思いです。


ところで何かを学ぶという時、人はその何かを「わかりたい」という欲求があると思います。

しかし「わかる」って一体何なんでしょう。

実は、この世の中には完璧に「わかる」なんてことは何も「ない」。
だから「わからない」と言うことを知ることが「わかる」ということなんじゃないかなと思います。
なんだかそんな風にいうと矛盾しているみたいですけどね(^_^;)

もし「わかる」ということが前提になってしまうと、何かを学ぶということ自体が自分には何かが足りていないというマイナスから始まります。
しかしいくら学んでも、完璧な「わかる」にはたどりつけない。
そうすると結局「わからない」ことに失望し、次から次へと新しいものに手を出していく。
「足りない、まだ何か足りない」そういう気持ちで。
足りない
でも、学ぶというのは実は沢山の「わからない」ということを知っていくこと、つまりわかったつもりの自分を手放すのが学ぶということなんじゃないかな。

だから「あっ、そうか」とか「わかった」という感覚って何か新しい事に気づいた時というより、今までの古いやり方を手放した瞬間に出てくる感覚なんだと思います。

いつも言っていることですが八光流柔術の稽古は足し算ではなく引き算。
私も未だに稽古の度に、わかったつもりでいた自分の身体の使い方に気づきながらひとつずつ手放していっています。
時間はまだまだかかるかもしれないけど、、生きている限り一歩ずつ牛の歩みでもいいから進んでいければなと思っています。

何かを学ぶのに、何かを始めるのに遅いということはない。

今までもそう思ってきましたが、78歳の入門者の方を見て改めてそれを教えていただいたような気がします。

| 稽古日誌 | 16:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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