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柔術稽古日誌「技とリアクション」

ある技をやった時に門人が派手に吹っ飛ぶように転がったとします。
すると他の門人が私にもそれをかけてくださいと言われて技をかけたら普通にコロンと転がりました。
リクエストした門人にしてみれば「いや、この技じゃなくてさっきの吹っ飛ぶやつです」と言うかもしれません。

ここには大きな勘違いというものがあります。
技をかけるという行為とその後のリアクションというのは別なんです。


例えばラーメンを作って食べさせると考えましょう。
不味いラーメンではお客さんも満足できませんから美味しいラーメンを作らなければなりません。
これは作る側の責任です。

美味しいラーメンが出来上がったとしてそれを食べてもらった時に相手がどのようなリアクションをするか。
これは食べる人によって違います。

にっこり笑って「おいしい」と言う人もいれば、表情を変えずに満足する人もいる。
もしかししたら美味しさのあまりバク転しちゃう人だっているかもしれない。

ラーメンリアクション
で、最初の話に戻るけどラーメンを食べた後のリアクションはあくまでも受け手側の反応なのだからこちらで操作できるものではない。

だから食べたらバク転するラーメンを作ってくださいと言われても困ってしまうのです。


ただ面白いのがリアクションというのは場の中である程度広がっていく性質があるということ。

美味しいラーメンを食べてバク転する人が一人二人三人と増えていくと、そうじゃない人達も段々このラーメンを食ったらバク転するんじゃないか、いやしなくちゃいけないのかもしれない、なんて気がしてくる。

だから道場において多数の人たちがあるリアクションを行うと、他の人たちもいつのまにか同じようなリアクションになっていく。

実際、ひとつの流派内で同じような稽古をするわけだから身体反応としてのリアクションがある程度共通してくるというのは当然だし、ある程度の統一感があった方が稽古はしやすいです。

ただし気をつけなければならないのは、どこまでが技でどこからがリアクションなのかをよく見極めながら稽古しないと技の本質を見誤ってしまいかねません。

稽古で必要なのは美味しいラーメンを作ることであって、相手をバク転させることではないのですから。

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5/1入門あんころ紅の豚  

美味しいラーメンを作るとは?

本日7月23日水曜日の松戸クラスは、施設は同じだったが、一風変わった場所での稽古だった。

で、上記の「美味しいラーメン」という意味合いを今日の練習を通して感じたことで述べてみます。

まずは、「美味しいラーメン」とは、誰にとってなのか?
そのラーメンの作り手(仕手)と食べて(受手)の2つの局面そして、それを見ている第3者の局面がある。

まず、美味しい、美味しくないというのは、結果。
作り手にとっての美味しいとは、自分の作る技、実際の稽古では自分自身の存在の仕方と使い方を洗練させ、今まで以上の能力を発揮させやすい状態に気づき、その状態を維持出来る様にすること。

それはまず「美味しいラーメン」を食べてみて初めてそんな味があるんだと驚きと感動を覚える一瞬がある。
味わったからすぐに自分でもその味を出せるかということでは無い。味わうのと味を出すのとは全く別。味を出せる人のアドバイスを得、実際に身をもって味わい、その中で、自分で実感、体得、盗む必要がある。
分析し、分解し、要素、要点を事細かに教えられても、やはり味そのものは自分で作って、やってみないと分からない。

それも教えた人に食べて(受て)もらい、認証してもらえることで、それに近づいたこと、これまでの自分と違う事が実感される。

最初は、まず、認めてもらい実感すること。

すると何度か味わう内に、次第にこれかなと言うそれまでには無い、自分なりの感覚が出来てくる。
それを認めてもらうと次第次第にその味がしっかりと定着してくる。

それで、他の人にその味を味わってもらおうとすると、相手が怖い顔のお兄さんだったり、もの凄い美人だったりするだけでも、使う素材は同じでも、出来上がってくるものが異なる。当然、相手の反応も異なる。一人として同じ反応は無い。

でも、最初はビビりながら、あるいは緊張しながら、あるいはにやけながらもやっていると次第に味が安定してくる。
そして、多少の外部からの刺激、ストレス、雑音にも乱されなくなる。

自分がそれなりの味をだせるようになると、今度は他の人の作る味がこれまで以上に味わえるようになる。
一生懸命に頑張れば頑張るだけ、到達しようとする味とかけ離れて行くということにも気づける。

一生懸命「美味いラーメン」を作ろうとする余り、基本の基本がおろそかになり、ある特定の要素、素材のみに目を奪われ、全体の味付けがおろそかになる。

自分で作る時も同様であるが、味に至る道が研ぎ澄まされてくると例え多少味付けがずっこけても、どこでどの位づっこけたかが自覚されやすくなっている。
お玉の持ち方、傾ける角度、上げ下ろしのみの表面的なことだけ真似しても味には関係ない。そんなの意味はない。
その関係無いことにとらわれて、一所懸命意味の無いことにとらわれてしまう場合もある。

本日の稽古を通してそんな感じを味わった。

もちろん、他の人の味付けの仕方も見え方が変わってくる。
味を作る人と味わう人を第3者の客観的な目で見るその目も変わってくる。

2014/07/24 (Thu) 00:53 | EDIT | REPLY |   

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